政治家を目指す理由

<なぜ李小牧が政治家を目指すようになったか。その経緯をあますところなく描いているのが2015年に出版した『元・中国人、日本で政治家をめざす』(CCCメディアハウス刊)です。これを読んでいただければ、歌舞伎町案内人だった私が政治に道に入ることを決めた理由を理解していただけるはず。今回、特別にその草稿の一部を抜粋して公開します>

そうだ帰化して立候補しよう

中国、そして日本の歌舞伎町をサバイバルしてきた私がなぜ、政治家を目指したのか。歓楽街のガイドが庶民の代表、そして民主主義を担う議員になれるのか。疑問をもたれるのは当然だ。そもそもなぜ、私が政治に興味を持ったのか、まずはそこから説明しよう。

1.ノンポリだった私

もともと中国から日本にやって来た頃、私はいわゆる「不問政治(ノンポリ)」な男だった。父親と自分たちが文化大革命でひどい目に遭ったため、無意識のうちに政治を自分の周辺から避けるようになっていったのだろう。それに、中国では政府に都合の悪い情報は国民に学校で教えないし、ニュースとして報じられることもない。

自由の国である日本にやって来た後もバイト、日本語とファッションの勉強、そして女の子とのさまざまな交流(笑)に集中していたので、来日の翌年、1989年6月4日に北京で起きた天安門事件に対してもまったく無関心だった。

当時、日本で勉強した中国人の留学生仲間はみんな東京の中国大使館にデモに行ったが、昼は学生、夜は歌舞伎町の外国人ガイドとして目が回るような忙しさだった私は、そんな彼らを「ヒマな奴らだ」と、むしろ冷ややかな目で見ていた。

2.政治に関心を持つきっかけはニューズウィークの連載

政治を避けていた私が再び政治に向き合うようになったのは、2004年に週刊誌「ニューズウィーク日本版」でコラムの連載を始めたのがきっかけだ。

そもそも連載のきっかけは、当時、同誌の編集者だったK氏が「歌舞伎町案内人」を読んで私を気に入ってくれ、声をかけてくれたこと。当時の歌舞伎町は、暴力団組織が群雄割拠するヤクザの博物館みたいなところで、さらに台湾マフィアに代わってのし上がった大陸系マフィアが警察の取締りでをかいくぐって、しぶとく勢力を維持する――そんな時代だった。

そんな危ない状況の中、どこの暴力組織とも深い関係をもたず、街に立って客を優良店に案内してバックチャージを受け取るサービスを自分で開発した私に、自分も歌舞伎町大好き人間だったK氏はいたく感心してくれた。アウトローぞろいの歌舞伎町で、「多民族タウン」である歌舞伎町を愛しつつ、自分の考えを正々堂々と主張する私がコスモポリタンに他ならず、グローバル化しつつあった当時の日本に必要な視点を提供するだろう、そんな風にK氏は考えて編集部の会議に提案してくれた、とのちに聞いた。

日本版とはいえ、世界的に有名な国際ニュース週刊誌である。いざコラムを書くとなると、天下のニューズウィークに歌舞伎町のヤクザと中国人マフィアの抗争や、女の子の話ばかりを書いている訳にはいかない。

「つまらない話ばかり書いていたら、連載打ち切りになる」という恐怖感もあって、毎回の担当編集者との打ち合わせにネタを3本準備して挑んでいたのだが、そのうちネタの中に政治や外交といった、「アブない歌舞伎町」とは一見ほど遠い話題を選ぶようになった。

3.政治と日中関係への関心

ちょうど連載を始めた2004年は、それまでの小泉純一郎首相による立て続けの靖国神社参拝と、中国で開かれたサッカー・アジアカップでの中国人観戦者による日本への挑発行為をきっかけに、日本と中国の関係がぎくしゃくし始めていた時期だった。

今考えると、その後の「氷河期」と言っていい日中関係の始まりだったのだが、歌舞伎町で主に中国人をガイドする私にとって、第一の祖国の中国と第二の祖国の日本がモメるのは、中国人観光客の数が減るから死活問題だ。自然と日本と中国の外交関係だけでなく、それぞれの国がどうあるべきかについて真剣に考え始めるようになった。

それに歌舞伎町は強い者と弱い者、そしてあらゆる国籍の人間がうごめくまさに世界の縮図である。いわばこの「歌舞伎町大学」で学んだことは、頭でっかちの学者や政治家よりも、ずっと現実に裏打ちされているはず――。そう信じて書いたコラムは途中の休憩を挟んで足掛け10年続き、まとめたものが「歌舞伎町より愛を込めて〜路上から見た日本」(小社刊)として2010年に出版された。

そして今回、「性界から政界へ」というチャレンジをするきっかけになったのも、ニューズウィークのコラムがきっかけになった。

4.歴史観の変化とコラムでの「出馬宣言」

2013年秋、私は懇意にしている著名中国人ジャーナリストと東京、関西を見学した。奈良や京都で歴史的建造物を見て回ったのだが、何より興味深かったのが、靖国神社の遊就館を見学したことだった。

それまで靖国神社に花見に行ったことはあっても、遊就館には足を踏み入れたことはなかった。日中戦争を「支那事変」、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、戦争に対する反省のない施設と聞けば、中国人はどうしても行くのをためらう。

ただ今回初めてその展示内容を見て、素直に驚かされた。まず当時の日本の産業力と科学力だ。航空母艦を何隻も持ち、世界で最も優秀な戦闘機ゼロ戦を作り上げる。当時の中国ではまず実現できなった水準だ。これでは祖国が日本に侵略されたのもしかたない。同行した中国人ジャーナリストと私の意見は一致した。

そして、戦争が終わって70年になろうとしているのに、いまだに何でもかんでも戦争にからめて日本を批判するのは、明らかに中国が間違っている。そもそも中国政府のやることは矛盾だらけだ――それまでかなり自由に発言してきたが、中国に帰っても公安当局に捕まることはなかった。ただ、さすがにここまで書くと限界かもしれない。そう思った私は、コラムの最後にこう記した。

「もしそうなったら……日本に帰化して待望の選挙権を手に入れ、『湖南性事郎』として新宿区議選挙に立候補することを事前にお約束しておく」

ちなみに「湖南性事郎」は私の書籍担当者のM君のアイデアなのだが(笑)、この最後の一言が思わぬ波紋を呼んだ。コラムを読んだ何人もの読者や友人、知り合いから、「やればいいじゃん!」「挑戦すべきだ」と言われたのだ。

5.中国民主活動家たちとの交流

当然、日本で選挙に立候補するためには中国国籍を捨て、日本に帰化することが必要になる。たとえ永住権を持っていても、日本では在日外国人の参政権は一切認められていないからだ。

正直、私は中国に帰るつもりはまったくなかったが、といって日本国籍を取ることにそれほど積極的だったわけではない。日本は第二の祖国だが、私の体に流れているのはあくまで中国人の血であり、第一の祖国は捨てられない。そう考えていたからだ。

その考えを改めるきっかけになったのは、1つは私のチャレンジ魂。私は「小さくまとまる」ことがまったくできないタイプの人間だ。常に新しいことに挑戦していないと、落ち着かない。歌舞伎町案内人として成功したら、次は在日中国人向けの新聞発行。さらに故郷の湖南料理を日本に広く紹介するレストラン経営。そして次は中国でのさまざまな情報発信……。いつも新たな目標を立て、その実現へ向けて挑戦することで自分を奮い立たせてきた。

もうひとつの理由が、中国人民主活動家たちとの交流だ。2007年に《湖南菜館》を開店すると、ちょっと不思議な現象が私の周りで起きるようになった。このレストランが、ありとあらゆる政治思想を持った中国からの客が集まり、喧々諤々の議論をする「サロン」のような役割を果たすようになったのだ。

ご存知のとおり、中国人の間では最近、日本観光が大ブームだが、この流れは今に始まったものではなく、ちょうど私が《湖南菜館》を開いた直後ぐらいから少しずつ大きくなっていった。歌舞伎町で困ったら李小牧の店に行け、というわけではないだろうが、日本語しか通じない店が多いなか、常時100パーセント中国語でコミュニケーションできるわがレストランは、中国人にとってかなり落ち着く場所らしい。

異国での母国語の安らぎに加えて、私との会話プラス激辛の湖南料理という“刺激”を求め、だんだん知識人の訪問者が増えていった。口コミで、「李小牧の店に行けば、いろいろな人に会える」という情報が広がったことも、サロン化を加速したようだ。

こうして私の店には、左右の思想対立を超えて、ありとあらゆる中国の知識人がやって来るようになった。お忍びで歌舞伎町に来た某地方政府のナンバー2を迎えたこともある。

もちろん、こういった左派(革命派が権力を握る中国では、ややこしいが左派が保守派になる)ばかりでなく、リベラルで民主的な思想を持つ右派もたくさんやって来る。いちばん有名なのは、1989年の天安門事件で指名手配されたまま、台湾で亡命生活を送る民主活動家のウアルカイシと王丹だろう。特にウアルカイシはしょっちゅう日本にやってくるが、その度に私のレストランに湖南料理を食べに来る。

このほかにも、2014年に天安門事件の真相究明を訴える集会に参加し、その翌日に拘束されたままになっている人権派弁護士の浦志強も来店したことがある。来日したリベラル系中国人ジャーナリストや弁護士で、店の名物「湖南チャーハン」を食べなかった人はもぐりだ。

こうした左右の中国知識人たちとの会話が私を“再教育”し、政治への情熱を高めるきっかけになったのは間違いない。彼らとの交流を通じて、私はひとつのアイデアを思いついた。

「民主主義を体験したことのない私が民主主義を自らやってみてそれを伝えることで、中国人と中国政府に大きな衝撃を与えることができるんじゃないか?」

中国にも歌舞伎町のような大きな歓楽街がある。広東省深圳のとなりにある東莞市が有名だが、この街の「ガイド」が政治家になるなんて、中国人には想像もできないだろう。それぐらい日本が自由で開かれた社会であることを、私の立候補を通じて中国に伝えることができる!

6.コスモポリタンとして

もちろん日本国籍を取って日本人として立候補するのだから、最優先するのは日本人のための政策であるべきだ。

以前から気になっていたのだが、新宿には外国人留学生のための日本語学校39校もあり、もちろん都内で一番多い。しかし、彼らに対する防災教育が十分とは言えない。

その証拠に、2011年に東日本大震災が起きると、日本語学校を含めた中国人留学生の大半はわれ先にと祖国へ帰ってしまった。言葉がまだしっかりできない状態で、何が安全で何が不安かはっきりせず、さらに中国の彼らの両親が「とにかく帰って来て!」と懇願するのだから、無理もない。彼らのほとんどは一人っ子だ。

留学生だけでなく、一般企業に勤めている在日中国人や学者も余震や福島原発の放射能の影響を恐れて日本から逃げ出してしまった。何が本当に危険で、何が危険でないかあらかじめ教えていれば、少なくとも中国人留学生がパニックになって帰国するような事態は避けられたはずだ。

2020年には念願の東京オリンピックが開かれる。中国人観光客もどんどん増えているが、東京が外国人を迎える準備ができているとはいいがたい。外国人ゲストが新宿や歌舞伎町で安心して観光してもらえるよう、区公認のボランティアガイドを育成してはどうか? 

そもそも区内には安心して使えるきれいな公衆トイレが少ない。わが湖南菜館はトイレの美しさでははっきり言って新宿で一番だという自信があるが、そういう公衆トイレを増設すれば、なによりの「おもてなし」になる。新宿区役所に国際業務課を設置して全世界に向け情報発信する……まだまだ閉鎖的な日本と世界をつなぐための「コスモポリタン」としてのアイデアはそれこそ湯水のように湧いてきた。

※続きは『元・中国人、日本で政治家をめざす』(CCCメディアハウス刊)をお読みください!